東海道の関宿を歩く
  ( 2008.01.13 )

  三重県亀山市の東海道「関宿」を歩いてきました。時おり小雪がちらつく中での散策でしたが、古い家並みに囲まれて江戸時代にタイムスリップしたような感覚を味わってきました。

白壁の家並みが続く中町の通り



東海道関宿

亀山市教育委員会・亀山市関支所
作成のパンフから転載した
 「関」は古代から交通の要衝であり、古代三関(下記注)のひとつ「鈴鹿関」が置かれていたところ。「関」の名もこの鈴鹿関に由来している。慶長6年(1601年)に徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、「関宿」は東海道五十三次の四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋などが整えられて参勤交代や伊勢参りの人々でにぎわった。

所在地:三重県亀山市関町
アクセス:(電車)JR関西線の関駅から
                    徒歩10数分
       ( 車 )名阪国道の関ICから約1km
問い合わせ先:亀山市関支所 0595-84-5078


(注)古代三関
   ・鈴鹿関(すずかのせき)・・・三重県亀山市(現在の関宿)
   ・不破関(ふわのせき)・・・岐阜県関ヶ原町
   ・愛発関(あらちのせき)・・・近江国(滋賀県)と越前国(福井県)の国境



 古文書によると、天保14年(1843年)に関宿には家数632軒・本陣2・脇本陣2・旅籠屋42・・・があったとされ、鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として江戸時代を通じて繁栄した、とあるそうだ。

 関宿の範囲は、「東の追分」と「西の追分」の間約1.8kmに及び、江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町家200軒あまりが残っていることから、昭和59年(1984年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。その歴史的な町並みは今もなお生活の場として残っている。
    (以上、同パンフ及び亀山市の公式HPから転載)

  (注)追分
(おいわけ)
     街道の分岐点のこと。
     元は牛馬を追ってきて分ける所、という意味だった。


東の追分

大鳥居と常夜灯
 JR関西本線の関駅から15分ほど歩くと旧東海道と伊勢別街道の分岐点となる「東の追分」に出る。
 私たちはここ東の追分から西に向かって「木崎」「中町」「新所」を経て、「西の追分」までの1.8kmを歩いた。

 因みに右の写真にある大鳥居は伊勢神宮を遙拝するためのもので、20年に一度の伊勢神宮式年遷宮の際に、内宮宇治橋南詰の鳥居が移されてくるそうだ。


木崎の町並み

 木崎(こざき)は関宿の東側に位置する。町家は平屋ないし中2階の比較的建ちの低いものが多く、 2階壁面は真壁にしたものが普通。 中町に比べその意匠はより簡素だが、伝統的な町並み景観がよく維持されている。

木 崎 の 町 並 み

虫籠窓ばったり

 関宿には右の写真にあるような家が多い。町屋の正面2階にある、漆喰で塗り籠めた堅格子窓(黄色い楕円で囲まれた軒下の白壁部分)は「虫籠窓」(むしこまど)と呼ばれている。

 また、橙色の楕円で囲まれた部分は店の前に取り付けられた棚で、「ばったり」(または「揚げ店」とか「店棚」)と呼ばれるもの。商品を並べたり通りを通る人が座ったりした。


中町の町並み

 中町(なかまち)は関宿の中央に位置し、西から一番町〜六番町にわかれている。本陣・脇本陣・問屋などがおかれ、主だった旅籠が集中した宿場の中心で、特色ある町屋が残っている。町家は比較的建ちの高い大規模なものが多く、2階壁面も塗籠めて虫籠窓をあけたり、全面に手摺りを設けて開放するものが多く、意匠的により華やか。

 中町から西を見ると、美しい家並みとともに、地蔵院本堂の屋根と鈴鹿の山々が正面に見え、関宿の最も美しい町並み景観の一つであると言われている。

中 町 の 町 並 み

山 車 倉(だしぐら)

 関宿の山車は最盛期には16基もあったそうだ。互いに華美を競い合い、また狭い関宿の道幅いっぱいの大きさに作ったことから、”これで限界”を意味する「関の山」の語源になったと言われている。

関神社の前の山車倉 中町の山車(左の倉の戸に貼っていた写真)

御 馳 走 場(ごちそうば)




 関宿に出入りする大名行列の一行を、宿役人が出迎えたり見送ったりした場所。関宿には4ヶ所の御馳走場があった。

芸 妓 置 店(げいこおきみせ)

 街道筋の宿場では、たいていの旅籠は飯盛女と呼ばれる遊女を置き、また専門の遊郭も多かった。下の写真にある開雲楼と松鶴楼は関宿を代表する芸妓の置店で、特に開雲楼は2階の立繁格子や紅殻(べんがら)塗りの鴨居や柱に、今でもその面影を残している。

開雲楼(かいうんろう) 松鶴楼(しょうかくろう=現在は鮮魚青果物店)


百五銀行の店舗
百五銀行の関支店




 町並みに配慮した意匠の銀行。平成9年度の「三重県さわやかまちづくり賞」(景観づくり部門)を受賞した。

関まちなみ資料館

 関宿の伝統的な町家を公開した資料館。関の文化財や当時使われていた道具類など、関宿に関係する歴史資料な展示している。玉屋歴史資料館(後述)との共通入館券は300円。

関まちなみ資料館

長火鉢(手前の木箱)と銭函 箱階段(階段の下が物入れになっている)






百六里庭と眺関亭(ひゃくろくりてい・ちょうかんてい)

 「百六里庭」は関宿の町並みの中に作られた小さな公園で、関宿が江戸から百六里余りにあることからこの名が付けられた。一方、百六里庭に隣接する「眺関亭」は通に面しており、2階から関の家並みが一切できることから名付けられた。

百六里庭と眺関亭の入り口

百 六 里 庭 眺関亭の2階から関宿の家並みを。
後方に見えるのは鈴鹿山脈




伊藤本陣跡(いとうほんじんあと)

伊藤本陣跡
 伊藤本陣は関宿にあった2軒の本陣のうちの1軒。現在残るこの建物は本陣(下記注)の店部分にたあり、現在は電器店になっている。
 右下に見えるレトロっぽいポスターは亀山市文化会館で近々行われる梅沢富美男のリサイタルの案内。この建物にメチャ合っているやん、と思わずニヤついてしまった。(笑)

(注)本陣:参勤交代の大名や、公家・公用の幕臣などが利用した格式の高い宿泊施設のこと。

関宿旅籠玉屋歴史資料館

 玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われたほどの、関を代表する大旅館の一つ。江戸時代に建築された貴重な旅籠建築に、当時使われていた道具類や庶民の旅に関係する歴史資料などを展示して、江戸時代に栄えた旅籠の姿を再現している。

玉屋歴史資料館

玉屋の炊事場 客室に並べられたお膳

客室に敷かれた薄っぺらい布団
四畳半ほどの小さな部屋に二つの布団がくっついて敷かれている


高札場と郵便局

高札場跡に建てられた関郵便局
 江戸時代には関宿のほぼ中心部に高札場(下記注)あったが、右の写真はその跡に建てられた関郵便局。

 下左の写真は何枚かの高札を貼り付けた看板。下右の写真は正徳元年(1711年)に張り出された高札を復元したもので、キリシタン御制禁のおふれ。「不審者を通報した者にはご褒美を与える」と書いてある。例えば・・・
  はてれん(バテレン=宣教師)を
     通報した者には銀500枚
  イルマン(修道士)は300枚 etc.

(注)高札場(こうさつば)
「高札」とは、昔禁令や罪人の罪状などを書いて往来など人目につく所に立てた板のこと。その高札を立てた場所が高札場。






新所の町並み

地蔵院(奥に見える寺)の東側の町並み
 新所(しんじょ)は関宿の西側に位置する町。新所のなかでも地蔵院の門前となる東側は中町と一体の家並みを形成し、中二階の町家が多く、主屋の横に庭を設けて高塀をめぐらす質の高い町家も見られる。
 一方新所西側は、その大半が小規模な平屋で仕舞屋(しもたや)風であるため、全体としてやや地味で落ち着きのある町並みを作っており、各町家の格子や「庇(ひさし)の幕板」などの伝統的な細部意匠が比較的よく残っている。

 地蔵院は 「関の地蔵に振袖着せて奈良の大仏婿に取ろ」という俗謡でも知られている。また、藤原定家の歌碑や山岡鉄舟の書などがある・・・と聞いていたので、拝観料(800円だったっけ?)を払ってお堂の中に入ろうと思ってもお寺の人が誰も居ず、周りをうろついただけで帰ってきた。(苦笑)

地蔵院 天平13年(741年)行基の開別と伝えられる名刹

会津屋(関宿では名の通った旅籠の一つ)
現在は食事処になっている
庇(ひさし)の幕板と出格子

地蔵院の西側の町並み この先に「西の追分」がある


西の追分

西の追分(関宿の西の端)の案内板



 関宿の西の入り口にあたる「西の追分」は東海道と大和・伊賀街道の分岐点。右の写真にある立て看板は最近立てられたものなので、古い石柱を探したが見当たらなかった。これで私たちの関宿散策も終わった。



 自宅から現地(東の追分)まで行くのに電車で3時間近くかかりましたが、江戸時代の古い町並みの中に身を置くと不思議と落ち着きますねえ。近いうちにまたどこかの町へ行きたいと思っています。


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